目的としての夢、手段としての夢


車好きにもいろいろいるよねって話。

 

夢書きの区分考察やスタンス分類は色んな人がしてるみたいで、その図解やらを何回も見てきたけどだいたい「自己投影派」か「オリキャラ派」に分けられてる感じがする。
でも私はずっとこの大別に納得がいかなくて、なぜかというと私自身がその分類のどっちにいるかが全く分からなかったから。

キャラくんを好きだという主体は「わたし」だし原作を楽しんでるときはキャラくんに幸せになってほしいと「わたし」が思うし、一度めちゃくちゃ好きになった某キャラくんが過去にある女性キャラと巡り逢い運命を果たしただけならまだしもその彼女と悲劇の別れをしてしまって彼の中で彼女が永遠の存在になったことで凄まじい失恋感情を抱いたことがある。(今でもそれはひきずるし、引きずる上に彼関連のカップリングがどれであっても苦手になってしまった(原作中でいくつかフラグが立ってる女性キャラはいるしその男女カプも人気があるっちゃあるんだけどどうしても無理だ
でもそのキャラくんで夢小説を書くときは夢主=わたし=必要な情報を削ぎ落したアバターではなく、彼の隣に立ち彼と共に歩むにふさわしい過去と実力と個性と美貌を兼ね備えさせてしまう。

失恋したのに夢書くの?幸せな?そりゃ彼は彼女を失って傷心なんだからせめて私の手元では新しい恋を見つけてあげたいじゃんエゴですよエゴ知ってる。

先述の「腐女子は夢小説を書くべき論」で広がった波紋を観察してたり書かれた方が拾ってくる反応を眺めていると、でもやっぱり自己投影派の人たちは「オリキャラ派とは相いれない」と発信している(全ての人がそうじゃないとは思うけど)。

 

ここで仮説を立てる。

生まれたばかりの「ドリーム小説」の「あなたの夢、叶えてしんぜよう」の「夢」は確かに「あなた=読み手」であり「夢」が「次元の壁を乗り越えてキャラくんと関係を持ちたい」だったのは確かなんだろうとは思う。かっこいい素敵な人がいたら恋したいしお喋りしたいし近づきたいって思うのは普遍的な感情だろうし。

 

つまり「ドリーム小説」には段階がある。
A「次元の壁を乗り越えてキャラくんと関わりを持ちたい」

B「名前変換を使って夢主の個性を一部剥奪することで次元の壁に穴をあける」

C「向こう側の次元に『夢主』が出現する」

 

夢Aは目的だ。願望であり欲求だ。もはや「萌え方」ではなく「生き方」とも言える。次元の違う世界にいるその人を「自分」を主体として追いかけている。

夢Bは手段だ。上記の願望を満たすためにかつての夢A女子が作り上げた魔法の力。名前変換機能がそれにあたる。

夢Cが結果だ。夢B女子が魔法を使って表現した創作物だ。

 

そしてそれぞれ分割した夢’について「わたしの夢はこれだ」という夢女子がいる。

夢Aを重視する夢女子が恐らく自己投影派と呼ばれる人たちであるのだろうと思う。「わたしがそのキャラを好き」という気持ちを核にしている。

ほんらい夢小説に緻密な物語なんてものは一切要らない。夢小説は物語という枠のかたちに従属してはならない。私は個人的にそう思い続けている。思えばこの想いを何よりも満たしてくれるのは、「テニス」の、とりわけ日常を切り取った夢小説なのかもしれない。初めて読んだ夢小説も、初めて書いた夢小説も、「テニス」のキャラクターのものだった。三つ子の魂百までとはこのことだろうか。屋上でサボタージュ、夕陽さしこむ放課後の教室、バスに揺られて海まで三十分。そんな時の止まったような永遠のシチュエーションのほかに、一体どんな筋書きが必要だというのだろう。君がそこにいる。その一瞬こそが「夢」なのだ。

夢小説とは何かを考える | ゆめこうさつぶ!

「夢は生き方だ」「アイデンティティだ」という呟きを見た。彼・彼女らにとってはキャラくんを好きでいることは当たり前のライフワークであり魂の在り方そのものだとしたら、「夢小説とはなにか」という方法論的な定義づけや論争などすべてが無意味なんだろう。

もはや『名前変換機能』が免罪符になっているんじゃないかというレベル

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つまり「名前以外の個性もりもりにしておいて読み手の自己投影を阻んでおきながら夢を名乗るなどおこがましい」みたいな感じ?そこまで語調は強くないんだろうけどそう思ってるんだろうし「自己投影とオリキャラは求めてるものが違うから分けろ」っていう提案もこの辺が元になってるんだろうか。

でも夢Aというのは最初に生まれた原動力だ。夢B女子や夢C女子がその感情を持っていないとは断言できない。たとえ一見「オリキャラかゎぃぃょ」派に見えたとしても、その根底にあるのは「キャラと関わりたい」「世界の中に参加したい」気持ちであるのは間違いないからだ。


夢Bは自分の書きたいもののために手段として名前変換機能という一面を選ぶことを指す。
原作キャラクターだけでは描けない物語・世界を向こうの世界から引っ張り出すために次元の壁に穴を開けた。キャラクターの新たな表情を引き出すために必要だと思えば個性も付ける、そんな人をよく見る。

夢Cは結果として生まれたもの=夢主重視の人で、オリキャラ派にかなり寄っている。夢主交流とかしてるのがこの層?


文章量に差があるのは夢C層と私自身交流が少ないのとまとまった文章でオリ主交流とかについて説明してくれる人があんまいなくて引用元がないから。(あったらごめんよ~


えーとつまり、単純な区分じゃなくて段階の話。
夢Bは夢Aを内包する(そのキャラが好きだという愛情が原動力)し、夢Cは夢Bを内包する(夢主は確かにその人の創作物であり次元の壁にあけた穴だから)、でも夢Aと夢Cが直結することはない(夢Aにとって夢主は限りなく人格や特徴を削ぎ落すべきものであり自分サイズの穴であるので)。

夢Aを追求している人と、悪く言うと夢Aを踏み台にして夢Bや夢Cに飛び出そうとしている人がいる。そんな感じがするけどBとかCには踏み台にしている意識はなくて、どちらかというと「私の夢A(愛)を見てくれ!」って気持ちの方向性が違うだけなんだろうと思う。
目的と手段としての夢の違い。

もう、反転してる。

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「車が好きな人」という概念があるとして、自分の車のメンテやカスタマイズに心血を注いでいる人と、車に乗ることが好きでドライブにブンブン行く人と、自分の車に乗って遠くに行くことが好きな人ぐらい違うし、その人たちを「車好き合コン」とかに集めても話の合わなさと「お前ほんとに車好きなの?」と喧嘩になるビジョンが浮かぶ。夢小説もこんな感じなのかも。だって自分の車大事にしてる人が「この前ドライブで何万キロ走ってめちゃくちゃ楽しかった!」とかいう話聞いたらちゃんとそれ手入れした!?って思うかもしれないし、ドライブ好きな人にとっては「車は車なんだから走らせてこそその本分を果たせるだろうに可哀想」って思うかもしれないし。あるいは私の車を見てください的に自己カスタム加えた奴をインスタとかで見せびらかしたい人もいるだろう。

 

 

私個人としては単純な平行区分よりも目的→手段→結果の段階的な分類の方がしっくりきているのでもう少し詰めて考えてみます。